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鍼灸

言説の一般的概念や通念の説明

語句説明

 本項では鍼灸治療に関して、その科学的研究の姿勢、手法、論文発表などを総合的に考慮し、それを評価する。鍼灸とは、身体に鍼や灸を用いて刺激を与えることにより様々な疾患に対して治療効果を与える医療技術のことを指している。
 本項での総評では、医療技術という観点に立った臨床現場でのエビデンス、鍼灸の技術面における科学研究の信頼性を重視する立場をとっている。また、本研究は鍼灸治療における個別疾患への有効性を議論の主戦場とはせず、鍼灸治療分野全体における科学研究について評定するものとする。よって本研究における各評定項目における評価が個別疾患における有効性をそのまま保証しているわけではない。

効果の作用機序を説明する理論の観点

理論の論理性 (中)

 鍼灸治療における論理体系は古代中国の春秋時代、あるいは戦国時代にその初期の体裁が整えられたと考えられている。それによると、人体には経絡という人間の生命力が流れる道が存在しその道の流れが何らかの形で妨げられると健康状態でなくなる、つまり病的状態になるといわれている。そこで、鍼や灸を使い経絡上にある各症状への適切な経穴(ツボ)を刺激すれば経絡における生命力の流れが取り戻せ、症状が恢復する、というのが鍼灸における初期の理論である。現代の鍼灸医学においても大筋ではこの論理を踏襲している。
 このような理論においては、人体に経絡というものを想定し、さらに各々のツボがどのような症状に対して有効なのかを仮説検証しなければ論理的とはいえない。しかし、どのツボがどの症状に効果があるといった論理は歴史的逸話に基づいた経験的な主張でしか語られておらず、そのような意味においては鍼灸の論理性は低いと言わざるを得ない。
 ただし、現代の鍼灸医学では神経科学的な知見も取り入れており、例えば鍼灸の脊椎後角鎮痛作用におけるゲートコントロール仮説といった有力な新しい説も提唱されている。このように、トップダウン的な論理構築だけでなく、実証主義に基づいた論理体系の構成も現代鍼灸研究には見受けられる。
 鍼灸の臨床現場においては経絡やツボといった考え方がまだ主流である、という社会的な現状については一言を付さなければならないが、基礎研究領域では合理的な論理体系が形成されつつあるという評価ができると考える。よって、論理性は中程度と評定する。

理論の体系性 (中)

 論理性項目でも述べたが、鍼灸では経絡と経穴(ツボ)といったものを想定しており、これは現代の解剖学的知見とは相いれない主張となっている。そのため、経絡やツボという概念が新たに現代科学で認められない限り体系性は高くならない。しかし、現代の鍼灸研究では神経科学的知見も積極的に取り入れており、そのような面から論理が構築できれば現代科学との整合性もとれ、体系性も高評価となる。現状ではまだ体系性が十分でないため、ここでの評価は中程度とする。

理論の普遍性 (中)

 客観性項目でも少々述べたが、鍼灸治療においては個人による効果サイズのばらつきが非常に大きい。そのため、厳密な研究体制が整っていても「誰」の「どのような疾患」まで鍼灸の有効性を示すことができるかを一般化するのは困難であるといえる。このことは、WHO、「コクラン共同計画」、医学誌論文、鍼灸学誌論文、他の学術論文において特定疾患への有効性やその効果サイズが異なっていることからもわかると考える。現在までのところ、どの研究における鍼灸の有効性が最も妥当で信頼性が高いかについては各方面で議論が続いておりまだ決着していない。そのため、本研究における普遍性評価も、どの研究を支持する立場をとるかによって変動しうるため暫定的なものにならざるを得ない。
 つまり、鍼灸治療全体の理論としては普遍的なものではないものの、ごく一般的な病態に対して有効性があり、そのような意味においては普遍性があると評価できる。以上の立場から普遍性を中程度であると評する。各研究を包括し、効果サイズ、疾患、患者を特定した発表を今後期待したい。

実証的効果を示すデータの観点

データの再現性 (高)

 鍼灸治療におけるデータの再現性は、その評価が非常に困難であるということをまず前提として述べる。それは、鍼灸治療における「特定」疾患への有効性を、データの再現性という観点からはとらえにくいと考えるからだ。鍼灸治療においては、その有効性の効果サイズが個人によって大きくばらつくということが原因であると考える。例えば、大筋では鍼灸治療に懐疑的な立場をとっている「コクラン共同計画」においても腰痛、頭痛には多少前向きな報告がなされている。しかし、それとWHOや鍼灸学界、さらに言えば臨床現場で報告されている有効性では効果サイズがそれぞれ異なっており、データの再現性という意味において個別疾患への有効性に焦点をあてた場合、現状では評価が困難であるということがわかる。
 ただし、鍼灸治療全体を俯瞰した場合、研究報告の発表バイアスを考慮してもその有効性にはデータによる裏付けが繰り返しなされている。つまり、鍼灸治療研究全体においてはデータの再現性が十分であるといえ、論文発表なども極めて充実しているといえる。本項冒頭で述べたように、本研究においては個別疾患における有効性を評価の基準とはしないという立場をとっている。そのため、鍼灸治療研究全体におけるデータの再現性は高いと評価する。

データの客観性 (高)

 上でも述べたが、例えば「全日本鍼灸学会」や「WFAS」に論文投稿する場合、利益相反の有無の記載が義務付けられており、鍼灸研究において、権威による断定や市場利益を優先した研究は排除される仕組みとなっている。
 また無作為化対照実験の有無についても近年の研究報告は主観的効果を認めない実験デザインをしており、研究環境としても問題は見当たらない。これはWHOによる鍼灸治療のガイドライン声明や、そこでの無作為化対照実験の研究対象をさらに厳しく厳密化した「コクラン共同計画」において確認することができる。WHOにおける声明ではかなり広範囲において鍼灸治療の有効性を認めており、より厳しく分析している「コクラン共同計画」においても頭痛、腰痛、化学療法を原因とする吐き気、首の疾患、夜尿症には多少肯定的である立場をとっている。よって、本研究におけるデータの客観性も高いと評価し、すなわち現代の鍼灸研究は極めて客観的だと位置づけられる。

データと理論の双方からの観点

データ収集の理論的妥当性 (中)

 現在、鍼灸治療の効果に合致した形での研究や実験が主流であり、実際にそれに沿ったデータが収集されている。また、そういった厳密性を鍼灸界ではむしろ求めており、理論面を充実させる体制もできつつある。
 ただし、臨床現場(すべてではないが)においては、そのような認識とはまだ少し距離があるのが実態であり、治療効果について患者の主観に依るものも多い。

理論によるデータ予測性 (中)

 鍼灸における研究は他の医療分野と比べても遜色のないほど盛んに行われており、その方法論や研究体制にも特に問題点は見当たらない。鍼灸理論の普遍性における課題は残っているものの、鍼灸に何らかの鎮痛作用があるということには現状疑いの余地はない。  
 ただし、「夜尿症」といった鎮痛作用のみでは説明のつかない症状に対しても鍼灸研究では有効性を示すデータが報告されているため、「データの再現性」といった面からは認められるものの、そのような有効性に「理論」が追いついていない状況となっている。今後は理論面での整備が必要となってくるだろう。
 以上のような理由により、鍼灸治療のデータ予測性も中程度と評価する。

社会的観点

社会での公共性 (高)

 鍼灸では臨床現場での成果だけでなく、研究を社会的に発表、還元する制度も世界的に整っている。日本を例に挙げると、「全日本鍼灸学会」「日本鍼灸師会」といった学会が積極的に活動しており、研究論文などの発表なども定期的に行われている。他では、ドイツにおいても鍼灸が一部正統医療として“定義”されていたりと、社会的、公共的な仕組みとなっていることがうかがえる。
 世界的には「WFAS (The World Federation of Acupuncture-Moxibustion Societies)」が中心的組織として活動しており、各国の研究機関での成果がそこに集合している。また、「全日本鍼灸学会」「WFAS」では論文投稿時における査読、利益相反関係の有無、といったことを細かく規定しており、制度上の問題も特に見当たらない。さらに、BMJ(British Medical Journal)など本流医学誌での質の高い鍼灸研究論文発表もみられ、医学会との親和性も高いと判断できる。よって、社会での公共性は高評価である。

議論の歴史性 (高)

 鍼灸の起源については論理性の項目で少し触れたが、現代日本における鍼灸については明治時代以降、特にその議論が活発になる。
 明治政府による医療制度の西洋化によって鍼灸医療(漢方なども)は衰退の道をたどる危険性があった。そこで、従来の古典的なツボ治療から、一定のシステムをもった治療体制が構築される必要があった。そのような動きの中で、たとえば1952年以降の「経絡論争」といった運動や、経絡を客観的に実証しようとする研究と、経絡以外に鍼灸医学の基礎を確立しようとする研究などが盛んになり、一つの医療システムとして、客観性を重視した議論が形成されていった。
 また、1960年頃になると、臨床現場における鍼灸治療の方法論として現代医学的な病態を明確にして、病態に応じた治療を選択するといった提案がされるなど、現代医学の知見を取り入れたり、それと連携する動きも活発になっていった。他にも、治療効果における統計的観察を重視するべきであるといった立場が生じたりと、活発な議論が行われてきたことが推察される。 こうした経緯から鍼灸医学システムは大きく、古典派と現代派にわかれることとなるが、両者が全く決別しているわけでもなく、疾患や症例に応じて併用もされている。
 また、現代の鍼灸研究においても、一方通行ではない多面的な議論が展開されている。
 たとえば、WHO(世界保健機関)では鍼灸治療におけるガイドラインを設定し、それによると神経系疾患、運動器系疾患、消化器系疾患、といった多くの疾患に有効であるとの声明を発表している。
 しかし、このWHOの発表については反論も存在する。その代表的な例が「コクラン共同計画」であり、そこではWHOによって有効性があるとして発表した多くの疾患についてプラセボ効果以上のものはないと判断し、一部の限定的な症状についてのみその効果を多少肯定的だとしている。
 また、この「コクラン共同計画」にも多方面から反証論文が提出されており、たとえばBMJで発表されたもの(関連リンク参照)では「コクラン共同計画」で分析されたデータをさらにメタ分析し、鍼灸には効果サイズは小さいものの、プラセボ効果や何らかのバイアスでは合理的な説明のつかない鎮痛効果があるとした研究も報告されている。鍼灸界からも多数反論が寄せられており、それらの研究においてもオープンな場で議論できる土壌が整っている。 つまり、肯定的な研究発表と否定的な研究発表が互いに議論し合っている状態にあるといえる。
 このように、鍼灸については多角的で多面的な議論が展開されており、鍼灸研究においてもそれらを受け入れる、あるいは反論するといったが動きが活発である。
 以上より、議論の歴史性は高いと評価できる。

社会への応用性 (高)

 現在、鍼灸は世界的にも医療として広まっており、さらに社会制度面での設備が整っている国も多い。日本を例に挙げてみると、日本では「はり師」や「きゅう師」、もしくは医師の資格を持っていない者には鍼灸治療を行うことを認めていない。「はり師」や「きゅう師」は国家資格であり、これを取るには専門機関で教育を受けなければならない。
 また、医師による同意書が必要であるが、鍼灸治療において医療保険が適用できる場合もある。日本における鍼灸治療の医療保険適用疾患は「神経痛」、「リウマチ」、「腰痛症」、「五十肩」、「頚腕症候群」、「頚椎捻挫後遺症」、その他の類似する疾患において有効である。このようなことから、例えば日本での社会への応用性は高いと評価できる。
 また、世界的な制度や設備についても同様の評価ができる。例えば、医療衛生面や医療機器面において、FDA(アメリカ食品医薬品局)やWHOによって鍼灸に使われる「鍼」や「灸」の衛生面や安全性について細かく規定している。これは通常医療における衛生面や安全性のガイドラインと比べても同程度の厳しい基準である。
 以上のようなことから、鍼灸治療は社会的にも応用性があり、さらにそのための枠組みも整っていると考える。よって社会への応用性は高評価とする。

総評

発展途上の科学

 鍼灸治療を疑似科学とする根拠はなく、また社会的な実用性という観点からも科学として評価されるべき項目であるといえる。
 代替医療の研究分野では、主に懐疑論者が中心となって、「その医療行為」においてのみで有効性を評価しようとする動きがみられる。しかし、医療行為においては他の自然科学分野とは異なり通常医療も含めすべての医療行為を相対的に評価し、その効果を検証しなければならない。それは、医療とは人体の科学であること、現代の通常医療は「万能」ではないこと、そして「健康状態」を定義する基準は何であるかということ、を常に前提として考慮すべきだということを意味している。
 鍼灸治療において、その研究方法、社会への還元、法的制度は現代科学的研究の基準に達していると判断でき、他の科学研究領域と比較しても遜色のない水準であると思われる。
 以上を踏まえ、本研究において鍼灸治療は「科学」と評価できる。だが、経絡やツボを主体にした理論については、今後現代化が求められることだろう。

参考文献:

『図解 鍼灸臨床手技マニュアル』 尾崎昭弘
『エビデンスに基づく腰痛症の鍼灸医学』 全日本鍼灸学会
『臨床鍼灸学を招く―科学化への道標―』 西條一止
『臨床 鍼灸治療学』 西條一止
『代替医療のトリック』 サイモン・シン
季刊『理科の探求』左巻健男 2015春号 特集 ニセ科学を斬る!リターンズ p50-109(p80-85)
『新しい鍼灸診療』 北出利勝/編
『代替医療&統合医療 イエローページ』 上馬場和夫
『鍼灸の歴史』 小曽戸洋 天野陽介
『ハリソン内科学 第4版』 福井次矢、黒川清/監修

情報提供、コメント、質問を歓迎します。

(最終更新日時2015年8月22日)

投稿

投稿&回答

患部から離れた部位に物理的作用を加えることによって治癒する理由とは。
これは物理学における同期と共鳴という現象である。患部のみに対して作用を加えるよりも有効性が高くなる。現代医学では否定されているが、理論的におかしな現象ではないし、事実である。鍼灸という方法では再現性も低く効果的ではないが。
現代医学は生命現象を化学反応の集積と考え、生命が物理法則によって支配されていることを認めていない。間違っているのは現代医学であり、薬物療法の大部分は物理療法に転換することになるだろう。
物理法則を認めないから、エビデンス論や統計学を適用すれば科学的研究を行ったかのように医師たちは錯覚する。

(投稿者:78ppm,投稿日時:2017/05/07 01:38:17)

(回答日時:2017/05/07 16:57:09)


なにかアグレッションを込めて言ったつもりはないです。そのような文面だったでしょうか。あなたがどんなコンセプトをお持ちなのか、そこに関心をもっただけです。いずれにしろあなたのご趣旨がよくわかりました。
ありがとうございました。




(投稿者:Rejoice21,投稿日時:2017/03/31 22:45:48)

(回答日時:2017/04/05 08:51:10)

>『正統的な科学の方法』でもって『日常生活における未知の現象』を解き明かそうというのは、それ相応の壁があるとは思います。
>『それがどのようにして、一体どうして効いてるのか』調べることはとても難しそうですね。因果が逆というか、根本的な矛盾がありはしませんか。
どのようにすると問題を解けるのか、必死になって問題の解き方を考えるのが研究者です。できない理由を並べ立てるようでは研究なんてできるはずはない。そんなことも分からずアレコレ言うべきではない。訳の分からないことを書いて、恥ずかしくないのですか? (投稿者:78ppm,投稿日時:2017/03/24 22:58:37)

(回答日時:2017/03/27 18:19:08)

>主張を支える理論や仮説が何かあるならば
自分で勉強すれば
私に文句をつけるよりも、自分で分子生物学や物性物理学、生物物理学などの本でも読めばよいだろう。そして、それらの中に書いてある断片的な知識が、1つの体系としてつながるまで10年でも20年でも考え続ければよい。治癒という事実があるのだから、ちゃんと科学的根拠は見つかる。
>一体どの物理学者や研究機関で言ってるんですか。
もしも、すでに解明されているならば、N賞メダルを5個、10個纏めてもらってもよいくらい医学史の中で重要な理論といえるだろう。
1つのテーマ、例えば科学哲学ならば、3年くらいかけて100冊くらいは読んでみれば、何となく疑似科学の判別くらいは分かるようになる。そんなもんですよ研究って。 (投稿者:78ppm,投稿日時:2017/03/23 23:22:27)

(回答日時:2017/03/23 23:28:42)

〉78ppmさん
あなたの立場は、どういったものですか。ちょっとそこがつかめません。物理を修めた専門家さんですか。物理に依拠するマッサージ家さんですか。物理療法(いわゆるマッサージや針など、体表面を刺激するもの)における確かな効果は、物理法則がなにがしあるからなんだ、という主張ですか?そのさい、物性による現象だとか、タンパク質の変性が生じてるからだとかは、一体どの物理学者や研究機関で言ってるんですか。あるいは、あなたの主張を支える理論や仮説が何かあるならば挙げてください。知らんと言うのならそれでも構いません。
漢方にしろ、針灸にしろ、これまで実体的な解明はせずに、文化として残ってきただけの構造論的な情報体系を、現代・現行の還元論的な科学に乗っけてなんとか解明しようみたいなことを言ってるんでしょうかね。『正統的な科学の方法』でもって『日常生活における未知の現象』を解き明かそうというのは、それ相応の壁があるとは思います。また、そういった解明を求むようなつよい要請も声も特にないですね。
それにしても、『すでに効かせるために行っている行為』を『それがどのようにして、一体どうして効いてるのか』調べることはとても難しそうですね。因果が逆というか、根本的な矛盾がありはしませんか。

(投稿者:Rejoice21,投稿日時:2017/03/11 15:20:19)

(回答日時:2017/03/23 21:57:25)

長々と書いているが、何を言いたいのかサッパリ理解できません。科学は単純・明解でなければなりません。
「ツボ」に反応があるとか、ないとか、そんなことにこだわっているようではいつまでも科学的な理解はできませんよ。すべてはタンパク質の物性に基づく現象であることを分からないで、あれこれ理屈をこねるのはやめましょう。
ツボだの神経だのと言っているようではダメです。分子・原子レベルで考えなければ。階層が異なるようでは議論が成立しません。現代医学が分子レベルで考えるならば、鍼灸医学も分子レベルで考えなければならない。同じレベルで考えれば、通約可能性の芽もあるだろう。それが要素還元主義というものです。
多くの薬物療法、鍼灸や湯液などの治療法は、まもなく消滅することになるだろうがやむを得ないことです。







(投稿者:78ppm,投稿日時:2017/03/02 02:17:07)

(回答日時:2017/03/11 09:03:25)

参考文献と関連リストに、サイモン・シンのいわゆる『トリック本』とそれへの『反対論文』を挙げていますね。私自身どちらかへ偏ることもできないのが正直なところですが、双方の主張はわかる気はするのです。
サイモンさんなら『プラセボだろうが普通の針だろうが効果に差はないやん。それでなにが針の専門性だよ。実はそんなんなくて、全部プラセボなんだろ?』と言いたいでしょうし、一方のサイモン反論側(この方は面識もありますが)からすれば『プラセボ針にだって皮膚に触れてる時点で生理的反応は出てるし、浅い針も深い針も両方に効果がみられる。それに、論文内では服薬治療グループよりも針の成績のほうが数値良く現れてるじゃないか』と言うでしょう。そういう論争(?)でしょう。オフィシャルな面を省けば、水かけ論に近いです。
プラセボ針(実験用)もやってみればわかりますが、感覚としては皮膚にハンコ押すよりも微細な刺激です。ちょんっと誰かに撫でられてるくらいのもんです。ボールペンの芯先を皮膚上で出すより弱い刺激です。これ、あきらかに誰でも日常生活生じてる刺激なんですよ。キーボード打っててもそうなはずです。とても大切なことは、そこに専門性持たせて商売やってることなんですよ。そうか、これで患者さんから数千円もらってんだな、と改めて自負するわけです。
擬似科学というと、つい未知の領域までもそこに入ってきやすいですが、私は未知のものは閉ざさず、できるだけ興味持っていたいとなとは思います。また科学的にみていこうとすること自体を真っ向反対しないです。ですが、あまりにも検証の余地を飛び越えて、ある時期大きく理論化させてしまった部分はたしかにあるんですこの業界。アトノマツリな気もしますが。すごく厳密にいえば、(文化軸だけで残ってきたような)ツボをつかわないでも効果はあることを、まだ反証しきってない中で、理論化して、その途中経過や段階のことを明確に定義せずに、そのままで『まるでそう反証されたかのように』『科学的に正しいかのように』踊り場へ出してしまいました。それが、今の巷の針の各理論です。だから、ツボで治療しようが、トリガーその他で治療しようが、差はないです。トリガーもツボと7割一致すると謳っています。(実際は1つのトリガーゾーンに複数のツボが該当するでしょう)一生そこには誰も甲乙つけられないです。だから『物理法則が見つかってないから、1症例しても科学論理的に意味がない』でなく、これら現状の中で、最も妥当性・信頼性あると言えるのは1症例でしかないと思っているんです。私は常識的に知られている物理法則までしか知りません。ここには人によって異論もあるはずです。
それと服薬(現代的治療)よりも効果がある、という研究結果の主張のほとんどが『痛み止めしかもらえないような疾患』つまりはそれ以上なす術のないような疾患にたいして、針が効くような場合があるといった報告を取り上げているだけです。よく注意すべきなのは、何も治療せずとも時間と共に自然寛解するようなこともある疾患を対象とする場合もあります。
(投稿者:Rejoice21,投稿日時:2017/02/23 02:10:12)

ご投稿ありがとうございます。
貴重なご意見と思います。実態的な意味での鍼灸は、「幅」が相当広いということですね。
(回答日時:2017/03/01 18:09:03)

ツボという概念は忘れましょう。360余りの正穴以外に奇穴というものがある。中国における奇穴の報告数は1000とも、2000ともいわれるが、すべての細胞は基本的に同じ機能を持っている。つまり、人体はフラクタル構造です。すると、極論をいえばすべての部位がツボになり得る。逆にいえば、ツボという特殊な部位を想定する意味も必要もなくなる。    
単純な原理に基づくはずの理論が、実際の現象に適用するとどんどん複雑化して、つじつま合わせになるようでは、その原理には致命的な欠陥があると考えてよいでしょう。したがって、それらはすべて破棄して、どんなに複雑な現象に見えようとも、単純な原理に還元可能な体系にしなければ科学理論とはいえません。ツボにとらわれると単純化できないならば、ツボというものを考えずに済む単純な理論を構築すればよいだけです。そのためには、物理法則を適用すればよい。
「ツボ」や「気」は、分子・原子レベルの物理的現象です。物性物理学によって説明できることであり、量子力学が基本法則です。          (投稿者:78ppm,投稿日時:2017/02/18 16:52:09)

(回答日時:2017/02/28 12:47:13)

異論や反論を承知であえて追記します。
現代的な針の作用機序を解き明かそうとする研究は、おおざっぱに言えば『針施術がもたらす神経機序』でなく、電気刺激や皮膚をツネル刺激といった『侵害刺激』をラットに与えることで自律神経に見られる一定の反応のシステムを、針にも適用させているのだと思います。
爪楊枝で今、自分の皮膚を刺せば私はとても痛いですが、これらの刺激も同様の侵害刺激としてまとめた上での研究です。『ではなぜ、針なの?』『つねるだけでもオッケーなわけ?』の部分に、答えうる理論として、実体は見つかってないけれども理論的な仮説として、針特有の重い感覚(世界的には『得気トッキ』)を引き起こす原因と考えられる受容器の概念を設定している。ということだと思います。
『場所はどこでもいいのか?』に対しては、古くから圧痛点(押して痛い所)を用いる場合が多かった背景から、生理学的な痛みの研究から発見されるに至った(痛みに関連する)ある特定領域に関する理論を、そこに適用させています。
ここに関して、良い面と悪い面があって『それなら漢方的な(古典的)概念は針治療にいらないのか』『なにも定められたツボでなくともよいのでないか』『針治療でなくとも…』『電気刺激でもよい』『浅くても深くても効果がある』というように、より一層、独自の理論を自由に唱えるようになってきてしまったことです。全体を俯瞰すれば、議論は活発かもしれないけれど、一向にまとまることは永遠にないであろう『ナンデモアリ』の体系になりつつあるのは事実なようです。そして、それらは比較検討しようがないことも難点です。なんのために科学化させたのか当初の目的から、遥かにそれていってる部分はあるかもしれません。実際の施術のどこにどのように成果が還元されているのか、いまいちつかめない現状にあります。

(投稿者:Rejoice21,投稿日時:2017/02/11 20:57:44)

(回答日時:2017/02/13 10:28:46)


ツボにせよ、経絡にせよ、古典に記載があるのみで、実体のはっきりしない概念をボンヤリ学術の中で泳がせているような現状です。(政治的にはGHQ論争がありました)
なにかしらの科学の仮説によって『説明がつきそうな理論』をただそこに適応させているのみです。多くの仮説は『実体はまだつかめてないけれども、理論的にそのように捉えれば説明可能である』といったものです。
しかし、その仮説でさえ、ツボが現段階でどういうものなのか、規定されている位置に関係なく人体のあらゆる箇所に『押して反応がある所』がツボであるのか否か、はっきりさせていない部分もあります。『理由探し』『つじつま合わせ』できる仮説をどこかからひっぱり探してくるような状況に陥りがちです。
海外を見渡せば、定義のしっかりした国があるかもしれませんが、資格の効力の及ばない他国の定義は参考程度にしかならない部分があります。
いくら教科書通りに正確にツボをとろうとも、実際の針は1ミリ以上は確実にそこからズレてます。『非ツボの箇所でも治療効果は期待できるんだ』と主張できる『ゆえん』です。
ライセンスは得たけれども、ほぼ『どこに打ってもいい』現状にあり、どこに打っても『効くかもしれないし』『効かないかもしれない』というように、専門性は一定のコンセンサスもなくカオス化してるように思います。まるで、自身らの財産を自身らで放り投げ自己崩壊しているようにも感じられます。

個人的には、ライセンスのない針を擁護する(生理学などの)科学者に『非ツボでも効果はあるんだ』などと言ってもらいたくないです。『あなたが人に治療をせずに、なぜそう言える?』と思うし、資格における秩序を乱す面もあるからです。
厳密には、人が人にすでに備わった何かを、人を介して人に与える場合に、人による科学でそれが解明されるということはないように思います。


(投稿者:Rejoice21,投稿日時:2017/02/11 08:36:16)

(回答日時:2017/02/13 10:28:40)


Exactness is a fake.
ありがとうございました。


(投稿者:Rejoice21,投稿日時:2016/11/27 13:49:07)

(回答日時:2016/11/30 09:14:55)

>素粒子やあるいはより先の理論物理を……
素粒子論のような知識が必要であるなどといっていませんよ。現代科学は客観的であることが困難である、抽象的になっているということの例として、書いただけです。
ただし、病気は分子レベルで起きているので、その階層・領域を支配している基本法則である量子力学は必要です。
素粒子レベルは、研究方法も、適用される法則も異なる別の分野であり、医学に直接関係があるわけではありません。
階層や領域の違いを無視して、他者を批判することはやめましょう。あなたとはこれで最後とします。あなたのコメントは、論理も日本語としてもねじれています。
鍼灸という治療法は、いや、現代医学の薬物療法の大部分も行われなくなります。鍼灸や薬物など使わなくても簡単に治療が可能であることは、理論的必然なので仕方がないことです。人それぞれ、立場によって利害が異なるでしょうが。

(投稿者:78ppm,投稿日時:2016/11/26 15:11:57)

(回答日時:2016/11/27 09:06:48)

ツボは、平面人体図に点描写されたマップですからね。それは物理うんぬんよりもまず古代文化の産物でしょう?ある一時代に出来あがった想念という意味で実体の明らかでないファンタジーではないでしょうか。
私は、人が人に対しておこなう何らかのこと、それが明らかに人によって(または人に近い動物等によって)観察され得ない場合に、人間が目的を持った運用は日常の中で不可能だと思いますけどね。目的を問わない行為ならば可能かもしれませんが。

ほんとうに物理療法家たちが、自身の治療概念や体系を支えるために、素粒子やあるいはより先の理論物理をも必要としているでしょうか。それは、およそ人から離れていき、より不可視で盲目的な世界観に入っていってしまいませんかね。よりミクロの何かが見出されたところで、生活に役立つ実用性の度合いにこれといった変化はないですよ。



(投稿者:Rejoice21,投稿日時:2016/11/25 00:19:09)

(回答日時:2016/11/26 13:14:43)

直接観察することは不可能です。理論上、そのようなことが言える、ということです。
現代科学の研究対象は、直接観察したり実験したりすることが不可能な階層や領域の現象が多いのです。例えば、地球や太陽の内部とか、宇宙の始まり、素粒子といったことです。
そこで、多くの間接的証拠や法則、理論などを組み合わせて強固な仮説を形成するのです。
生命現象も同じことです。その仮説によって病気という現象を制御できる事実があり、強力な反証がなければよいのです。 (投稿者:78ppm,投稿日時:2016/11/24 17:04:06)

(回答日時:2016/11/24 17:29:50)


〉違います、物質が正常ではない状態になっているのです。そこに外部から何らかの作用を加えることによって正常化させると、その変化が情報として周囲に伝達されていく物理的現象です。


物質の正常でないその状態とは、どのようにして私らに観察されるのでしょうか。あるいは、何と比較して正常な状態ではないのですか。配列の乱れた体内のタンパク質分子が、針によって整うということですか?私は、そういった事実を今のところ知りません。
私に観察されないことは、私は言えないです。それがいかにして、あなたに観察されるのでしょうか。



(投稿者:Rejoice21,投稿日時:2016/11/20 07:20:45)

(回答日時:2016/11/24 16:18:54)

>ツボ自体は状態変化のない静的スタティックなものでしょう。
違います、物質が正常ではない状態になっているのです。そこに外部から何らかの作用を加えることによって正常化させると、その変化が情報として周囲に伝達されていく物理的現象です。

(投稿者:78ppm,投稿日時:2016/11/13 18:20:40)

(回答日時:2016/11/16 13:03:10)

分子生物学が明らかにしているように、病気は分子レベルの異常です。現代医学は生命を化学反応の集積と考えているので、治療は薬物が主となります。それでは、なぜ鍼灸などの物理療法が可能なのでしょうか?鍼を打っても直接化学反応など起きていませんね。実は分子の異常を物理的に正常化することができるし、そのほうが本質的なので、物理療法は現代医学をはるかに上回る治療法です。これは物性物理学や生物物理学という分野の問題であり、治療のための法則はあります。 (投稿者:78ppm,投稿日時:2016/11/12 14:35:11)

(回答日時:2016/11/16 13:02:49)


(追)
私の立脚する場(観測点)はあくまでこの資格者としての視点です。当然ながら適応範囲や限界がそこに多く存在します。但し『シール針すれば抗癌剤による副作用から生じる身体症状が治る(かもしれない)』ということは、そこに関連する物理法則がわかっていないから可能性は完全に否定できない、未来では解明されうるかもしれない、ではなく、そのようなことに因果を成立させようとする、わずかの可能性さえも現実的に残してはならないのだと思います。それが医療職上の重要な倫理になるのではないでしょうか。これは個人の資格者の判断・考えだけの問題に収まらないように思います。現段階で何がわかっているか否かよりも、私らがどのような体系を築けるかに科学も重点が移っていませんか。

(投稿者:Rejoice21,投稿日時:2016/11/10 10:02:50)

(回答日時:2016/11/11 10:33:43)



アフォーリスムに基づく外枠の意味付けならば、ある程度、適当です。しかし問題は、中身そのものです。
針と灸、ツボ自体は、状態変化のない静的スタティックなものでしょう。それは、なんらかの視点や要素で規定した、あるいはそうみなしたパッケージ全体でしょう。その仮定はいいのですが、なんのためにでしょう?おそらく、針が治癒に効果がある、という信念や経験が起源ですよね。現代の多様な疾患に用いることはあっても、みずからはそれに対応した変化はしません。(研究のエビデンスであれ、古典記載であれ、同じ三里ひとつに治療すれば、同じ治療ですね)病気でも、未病でも、健康でも、同じ仕事ですよね。ステンレス何センチかの鋭利なものを、特定の皮膚層へ入れる仕事です。

完全に、科学=医学と言いきれない部分はあるかもしれませんが、変化は刻一刻してます。進歩があるという意味で、いくぶんか動的ダイナミックな気がします。

おそらく前者は、変化がある/ないよりも、後にも先にも、その変化を追えないですから、あなた本人が、変化を感じられるか、どのように見つけられるか、といった主観や価値観に向かいますよね。その方向性の先に、物理法則は、見当たらないでしょう。ないと証明されない以上、それはあるかもしれないでなく、無いでしょう。人間に科学的な探求のできない領域かと思いますよ。



(投稿者:Rejoice21,投稿日時:2016/11/06 13:12:35)

(回答日時:2016/11/11 10:30:01)

統計学とか二重盲検法とかを適用することは、検証法としては次善の策であり、法則の探究には役立ちません。    
物理法則にきちんと合致する論証ができるならば、極論ですが事実として症例を1つを提示できれば十分でしょう。あとは、斉一性原理によって敷衍されるでしょうから。 (投稿者:78ppm,投稿日時:2016/10/18 01:48:57)

(回答日時:2016/10/21 10:59:33)


なるほど、物理主義ですか。当方、物理法則と一般医学の関連に疎く記載をありがとうございます。勉強になりました。


(投稿者:rejoice21,投稿日時:2016/10/07 01:17:53)

(回答日時:2016/10/07 21:54:20)

科学的に見える現代医学であるが、研究の方法や適用する法則を間違えている研究が多すぎる。統計学云々はその一例にすぎない。人体も含めて、すべての現象は物理法則に支配されている。したがって、治療はそのような法則を応用して行えばよい。法則性を認めない統計学を適用することは、法則の探究をストップさせ、医学の混乱を固定化しているだけである。
そのような「事実」を知らなくても当然です。公表されていませんから。 (投稿者:78ppm,投稿日時:2016/10/05 16:13:24)

(回答日時:2016/10/06 13:09:29)

生体には物理的法則があり、再現性が保証されるので検証の必要はない。法則性があるから、物理療法が医療として成立する。

では臨床医学全般において、あなたがおっしゃる「混在した」科学「的」研究が盛んに行われているということですね?
また(例えば針や灸といった)物理療法においての法則性とは何ですか?そのような「事実」を私はこれまでで知りませんが。

(投稿者:Rejoice1221,投稿日時:2016/10/04 19:04:49)

(回答日時:2016/10/05 12:36:17)

法則には適用範囲というものがありますよね。同様にというか、表裏の関係として、研究方法にも適用範囲があるのです。世論調査とか疫学調査の場合は、現象を確率的に扱い統計的処理を行うことで科学研究として認められます。個人間に関係性はない、対象が多数である、全体としての法則性が認められない、などを前提としてこのように扱うことが許される。
ところが、臨床医学に二重盲検法や統計学を適用すると、一見すると科学的研究のように見えるが、大きな間違いとなる。呪術に類する治療法でなければ、治療は物理的あるいは化学的手段によって行われます。病気になる、治癒する、それは患者個人の体内において物理・化学の法則に従って進行する現象なので、決定論的であり確率論的ではない。治療は決定論であるはずなのに、検証は確率論というおかしなことになってしまう、このような間違いをカテゴリーエラーといいます。
決定論と確率論を混在させると、それは科学研究とはいえません。理論通りの再現性がなく検証が必要ならば、それは法則とはいえない。その法則が間違っていることになり、新たな法則を探究することになる。生体には物理的法則があり、再現性が保証されるので検証の必要はない。法則性があるから、物理療法が医療として成立する。
この程度のことは、科学研究のイロハのイです。統計学を適用したから、無条件で科学研究になるなんてことはありません。疑似科学を批判する人たちが、疑似科学論者と同じレベルで論争するようでは科学の進歩はありません。 (投稿者:78ppm,投稿日時:2016/10/04 11:59:49)

(回答日時:2016/10/04 14:22:50)


統計によって定まるものは、そのデータの数値的な信頼度や確からしさでしょう。統計的に意味をもつ数値が定まると考えます。但し、その数値が当事者にとってどのような意味をもつかは一律ではないでしょうが。「最も高い」エビデンスというのは難題です。一体なんでしょう、私にはわかりませんでした。
1症例の報告よりは、ランダム比較された試験、それよりはメタ解析された研究…というようにレベルは上下しても、確率における蓋然性の情報しかエビデンスは私に教えてくれません。しかし、エビデンスレベルのより高い研究ほど、一般的には科学的意義や信憑性がより高い傾向にあると位置づけられてるのではないでしょうか。
あなたのおっしゃる視点を考えてみました。様々な見地はありそうですが、まず法則と仮説の関わりはいかがでしょう。仮説が実証的・実験的に正しいか正しくないか検討さえもできぬような命題を、検証体系にのぼらせるのはどうなのだろうかと。否定される/されない以前の問題ではないかと。すなわち、そのような命題の集合に再現性さえ保たれないのではないかと。
しかし『知的に割りきれない部分』もこうして多分に含んでいることがわかってきます。
私は物理学を専門にしませんのでご教授頂きたいほどですが、東京駅で「ここはどこですか?」とたずねる子供に「坊や、少なくともここは宇宙のどこかだよ」と言ってる様子を思い浮かべました。その返答は果たして今実際にどれだけ役に立つでしょう。30分後にあらわれる駅員さんに期待しますか。
仮説形成の段階での詭弁や誤謬(あなたがと言っていませんのであしからず)こそが疑似科学における「pseudo」「Voodoo」の所以ではないかと考えますが。こういった医療全般における未文化な部分を今の社会の中で維持していくには、枠に見合った「ふるまい」をその都度々、規定していかざるをないと思うのですが。未開民族に未知との遭遇があったように。
(投稿者:Rejoice21,投稿日時:2016/10/01 06:12:17)

(回答日時:2016/10/03 10:33:47)

最も高いエビデンスとはなんでしょうか。統計学によって高さが保証されるなんてことはありません。我々が考えられる範囲内において最も強力なエビデンスは、その現象が物理法則に一致していることです。それ以外のことを考慮する必要はありません。物理法則が否定されない限り、再現性は保証されるでしょう。


(投稿者:78ppm,投稿日時:2016/09/30 16:11:01)

(回答日時:2016/09/30 23:16:41)


自ら得ようとしない機会は訪れることがありませんから、自ら手段そのものを解体放棄することによって、目的さえ得られません。再現性の有ることは制度上認められているのではないでしょうか?学位なり博士号なり何なり各研究成果によって与えられてますよね。100%再現性を確保できる科学は無いんじゃないのですか。そこを目指してどうやっていけるか、なので。脱構築というか。反証要素はその中に含まれていますから。非科学かもしれない部分はあるけれど科学性を目指していくという。(この場合でしたら)
素人にできるなら、プロ専門職である意義が技能・学術の中にはないのでしょうか。各個人の信念の中にのみ意義が約束されてるのですか。
客観的観測地点に立ったうえでのデータの再現性は〈証拠づくり〉のためではありません。各効果を示す論文内のそのデータが〈実際にいかほどそれが私らに役立つか〉を示す側面もあります。エビデンスレベルにも上/中/下など程度が存在しますし、目的に応じ、低いエビデンスの手法を取り入れ使用すること自体、とくに問題はありません。(業務範囲を逸脱していなければ)
高いエビデンスほど疑いがなく信憑性があるかと言うと、それは数値/数学的に近似統計の計算上そうであるのみなので、必ずしも完全ではない部分をも含んでいます。薬物の研究でも同様ですが、集団一定数内において一部効果の見られなかった者らも含んだ、最新特効薬があるように。そのエビデンスを使用する/使われる人間が別個そこにいるのです。科学はどんな形であれ最後は人間に還元されますよね。エビデンスが高くても低くてもなんでもいいという意味でなく、高いほどそのデータのみに信頼性があると言えるでしょう。しかしながら最も科学的意義のあるメタ解析を頂点とし、1症例を底辺に置いたピラミッドの中でも、1症例は信頼に足らぬとはなりません。あくまで実証的再現性に乏しいというまでのことです
「科学性の確立」はこれだと言える到達点やゴールはなく、どちらかと言えば「教育」「倫理」などと同じようにそこに向かって目指すべく「理念」に近いようなものでしょう。1症例のナラティブを積み上げていった末、何かそこに共通性を見出すことのできる要素だってあるでしょう。その共通性〈今ここで何が生じているか〉の探求はおそらく科学になりうる。その際にどういう切り口視点から検証していくか、その定義づけが重要でしょう。
また資格における各学位は、「再現性がある」「同じ結果が出ている」と何らかの制度基準に沿って認められた研究論文の成果によって与えられています。(院レベル以上=医学博士や先輩方、◯◯大学◯◯病院◯◯教授などがそうでしょうが)その制度が外部者にとって切り崩せない壁となってるだけでしょう。
私の当時の研究トピックは著名な大家による「脚にシール針すれば、末期患者における抗癌剤による舌のただれが改善する」というものでしたが。倫理上思う処いくつかありまして、その研究への参加はしなかったですが、上記案が専門家による真摯な実証的検証なのか、あるいは個人的な信念に基づく邪念なのかは容易に判断できるでしょう。上記は公費を用い実施に至ったはずですが。いずれにしろ針や灸の研究の困難さを理由にはできそうにない案ですね…
理論を〈多様〉にしてるのは資格者自身らであって、国家資格を通して国内で認可されてるのはあくまで〈一様〉な業務範囲でしょう。
“科学性をどう作りあげるか”よりも、“どう自ら論理的に科学していくか”のほうに集約するのではないのですか。 (投稿者:Rejoice21,投稿日時:2016/09/24 13:04:36)

(回答日時:2016/09/30 15:22:23)

科学というものは、条件が同じであれば、誰が行っても同じ結果が得られるようでなければならない。残念ながら、鍼や灸では同じ結果を得ることはできない。それは、「気」という現象が存在しないということではありません。「気」は存在するのであるが、手技療法であるために結果が不安定であり、治癒させることが困難なのです。
一定の結果が得られるようにするためには、鍼や灸に替わる手技ではない治療法を選択すればよい。客観的に認められるためには、鍼や灸という治療法を棄てることです。
専門家ではない、素人が行っても同じように完治させることができるならば、それは科学といえるはずです。鍼や灸にこだわっているようでは科学になることは不可能だろう。
(投稿者:78ppm,投稿日時:2016/09/23 00:08:56)

ご投稿ありがとうございます。 (回答日時:2016/09/23 13:06:40)


偽針であれ、爪楊枝であれ、体表に触れていますから、人体に『なんらかの』反応は生じていると思われます。しかし資格者としては、現行の針と爪楊枝とを同じ反応であると公で述べる者はいないでしょう。針の効果について検証した研究で、そのように述べてしまう者がいたとすれば、針に関して研究をする資格がないと思います。爪楊枝でなく針であることの意義に対して、そこを私らはどう〈持ち堪えるか〉が重要でしょう。爪楊枝にも針と類似した現象が起こる可能性があることを検証しても、研究目的の本質とは何ら関係がない。(弱点の担保ではなく、持ち堪えるという言葉が重要です)
〈担保する〉ためのツールとして科学研究という箱モノ(フレーム枠)を用意し〈これまで誰も知らなかったであろう専門領域内の事実〉のみをそこに持ち入れて、ふるいにかけ、実証的に述べ示したところで、自らの科学性を決して〈持ち堪え〉られません。
問題は科学性というのは、決して医師や医学博士の先導所有物でなく、国の物でもない、自然科学者だけ、専門家だけの物でもなく、実行者と聴衆及び利用者にこそ開かれているべき物です。極論すれば、箱の枠が純金製であれ、木製であれ、ステンレス製であれ、なんであってもよろしい。しかし、検証すべき事実がなんであってもよろしいわけではない。
セザンヌの書いた静物画のリンゴと思われる会計レシートが現代になって新しく発見されたとして、そのリンゴがどのくらい高級で、どこのスーパーで売られ、どこ産のリンゴか、などと実証的に述べていった所で、リンゴはあくまでリンゴです。価値は芸術家の表現の中にこそあったわけで、ありふれたリンゴが彼を通してその見え方が変容したからこそ世界観の進歩や発展です。そこで時代が変化してもいきます。
問題はもっと内面にある、ということが言いたいのです。
資格を得て、業務範囲は一様に認められている中で〈効果がない〉〈実体がない〉〈あやしい〉などとされがちな傾向には個人的に憤ります。では、いったいなんのために投資し、資格得て、従事してるのだという現場の声は、専門家や為政者らに果たしてどのくらい届いているのでしょう。経験に即せばそこに彼らは疎く、驕りにも似た、蓋をかぶせたい何かがあるのでないでしょうか。
考えるきっかけを与えて頂きましてありがとうございました。



(投稿者:Rejoice21,投稿日時:2016/09/18 22:38:19)

ご投稿ありがとうございます。 (回答日時:2016/09/23 13:06:23)

鍼灸に関しては、やはりプラセボの扱いが一番の問題になっていると思います。
そもそも経絡の刺激に対する効果が刺激量に単純に比例するかどうかも明らかになっておらず、近年ではかなり浅い刺激でも効果がある可能性が指摘されています。つまり偽針の場合もプラセボではなく、ある程度の効果が出ている可能性があります。
また経絡の取り方も非常に多様である点、西洋医学的に「同じ症状」であっても東洋医学的には異なる証とみる場合など、一般的なプロトコル自体が鍼灸効果の判定に適していないと思われます。
単純な医師主導ではなく、東洋医学を深く理解した鍼灸師がプロトコル作製から参加すべきではないでしょうか。 (投稿者:正道,投稿日時:2016/09/15 19:36:42)

ご投稿、また鋭いご指摘ありがとうございます。 (回答日時:2016/09/17 13:00:02)

以前とある大学院でこの種の研究路線に携わっていた経験のある者です。(有資格者)語弊があると良くないですが自身で思う所を率直に。

針ないし灸に対して科学的客観性の有無を追い求めた研究にゴールはありません。そもそも針ー灸ーツボに対しての明確な定義すらないからです。
ないというより実際はまちまちなのですが。実体があるかないかすら明確に定義されないものを検証するのは道なき道でしょう。たとえ実体がないと誰かが定義してもその命題からスタートしそれを科学的に吟味し、理論構築すればいいわけですが…。

現行医学とは理論体系がちがうという意見が多々ありますが、そもそも未定義のものに理論も体系も確立されようがないです。
有名な研究機関においても、あるいは巷で一人営む無名の資格者であっても、「理論」というのがこの業界の場合、各々が個人ないし集団にて唱えてる「独自」のものでしかありません。
日本国内においては、医療文化として残ってきた療法のひとつである事が第一線枠であり、その後何年時代が続こうが、発展しようが廃れようが、その枠以上でも以下でもないというのが私の考えです。

現在の研究路線では、
基礎研究においては、針ー灸ーツボそのものよりも、それの延長線上にある研究(例えば痛みの研究)を進めるか、あるいは全くそれらと直接の関連はうすい研究を進めていくか。
臨床研究においては、ざっくり言ってプラグマティック(実践的)に示す。つまり「針(灸)をやってみてどういう良い効果がデータに現れるか」を示すしか方法はありません。
「それそのものがどういう働きを人体にもたらすか」ほんとうの意味では(当然ながら)知り得ないということです。そうしますと、針ー灸ーツボにそもそも科学的命題すら成立しないことになりますが、その点は私にはコメントの仕様がありません。

このような軋轢・複雑性の中に各資格者・研究者が存在しますから、負の傾向と致しましては「〈自分で効果があると思うある方法・理論〉を研究で〈広く示したい〉」となりがちです。
また各組織等の宣伝・戦略と関連すれば、「いかにインパクトを持ちうるものか」が先行してしまいがちです。誤った啓蒙とも言えるでしょう。
仮に「ほんとうに効果がある」のならば、わざわざ研究でそれを示さなくともよいのですから。

もしも“医学”であるのならば、〈この病患にどうにか治ってほしい〉と私が考える事と〈その病気や症状が治るだろうか/治らないだろうか〉といった私の判断とを、明確に区別できなければ、医学が成立しないはずです。

だったら、正統的かつ誠実におこなっていけばいいではないか。といった意見も生じそうですが、実際に研究をおこなってみればわかる部分もあります。例えば、試みて明瞭に効果が現れにくかったり、かといって全く効果のない嘘ぶいたものでもないものであったり。
コクラン評価やWHOの見解をも合わせれば、そのあいまいさはさらに納得できるはずです。良いような悪いような果たしてどっちなんだ一体、なのです。
まるで先代からの古文化に私達が〈化かされて〉いるかのようです。畏敬をもって、大きな効果を予測せず、日々病患に向き合うことこそがリアルな部分かもしれません。

その意味では針ー灸ーツボの研究というのは、例えば看護日誌に見られるように患者さんの日々のこと症状のこと等を細かく書き、検討し議論し、自身も書き直し、また考え…1人の人間についてそれを繰り返す。そういった1症例報告のナラティブ構築にゆくゆくは落ち着くだろうと私は考えます。

しかし医療倫理やマナーといった面はこの資格者はしっかり身につける人が多くいることはどうか知って頂きたいです。決して、相手(患者さんなど)を騙そうとしてるわけではないです。病める方々にあくまで良くなってほしいといった出発点から、上記のような事も踏まえてなおも真摯に追求しようとしている方が一定数おられると思います。

また末筆ながら「効果がない」といった考えに基づく何らかの仮説をもってして「実際に効果がない」と科学的にそれを示すこと/示そうとすること。それ自体は無意味です。役に立たないことを証明して一体どうするのですか。

偉そうに長々と書きました。
















(投稿者:Rejoice21,投稿日時:2016/08/21 01:19:04)

ご投稿ありがとうございます。
たいへん深いご指摘と思います。
医療については、少なからず「何であれ、治ればよい」という、工学的な発想が関わっており、それが「科学」と摩擦を起こしている部分がありそうです。
個人的には、医学⇒科学、医療⇒技術、といった側面が色濃いように感じておりまして、「患者を治療すること」と「治療法を研究すること」との違いも今後考えていくべき要素と思います。 (回答日時:2016/08/23 09:08:37)

似非でしょう。
辛辣ですが、大半はただのブラシーボ効果に過ぎないと思ってもいます 

按摩や鍼灸等といった物は『いかにも学術用語そうなやや難解な造語を言葉巧みに使って一種のファンタジー』を演出した"出鱈目"でしょう

私の経験上、海外のマッサージ店や日本の鍼灸、按摩等を受けたことがありますが、バイトが行っていたり、明らかに独自の療法?みたいなものが蔓延っていたり、それで逆にどこかしらを痛める人だって見てきました。さらにはまるで、アニメのチャクラ?みたいな感じで体内にドラゴンが住むだの、『今、私の気を送っています』みたいな療法とか。もはや言葉が出ない状態です

はっきりいって、日本の保険料を詐欺ろうとしている集団だとしか言えません 科学というのは、もっと分かり易い概念で且つ、再現性のある物でなければなりません それは人の身に関わる医学であるならば尚更です

もちろん私は『個人差』というものを分かっています、しかし、いくらなんでも、皮膚という細胞を針で壊し、それで血管に穴を空けたら自然治癒が上がってなんとかんとかとか、意味が不明で仕方がありません.... (投稿者:形而上のU,投稿日時:2016/06/12 23:26:24)

ご投稿ありがとうございます。 (回答日時:2016/06/13 16:10:34)

鍼灸師の一人として、書かせて頂きます。
鍼灸について、比較的高い評価をつけていただいたことを、嬉しく思います。
その一方で、今回の評価が主に「有効性の検証」であることについて、ご意見申し上げたいと思います。

東洋医学理論は、現代医学とは全く違う体系を持っています。それゆえ科学的に未解明な有効性も存在するのですが、一方で、未解明であることを逆用して過剰効果を喧伝するケースが跡を絶ちません。

これまでに「鍼灸は全体を整えるので、どんな病気にも有効」とか「ガンでも治せる」と発言する鍼灸師を、何度か見てきました。
治療を受ける側も、東洋医学の神秘的なイメージにより、「現代医学では治せない病気が治せる」と、大きな期待をしてしまうことがあるようです。

多くの疑似科学についてもそうですが、一番被害が生じるのは「効果があるかもしれない」という期待の部分です。

鍼灸のように社会的影響の大きなものについては、有効性の検証と同時に「無効性」(確実に無効と考えられる部分)の検証をする必要もあるのではないでしょうか。

科学的に無効を判断することが難しいことは承知のうえですが、検討いただけますと幸いです。 (投稿者:ハチ,投稿日時:2016/06/01 09:43:30)

ご投稿ありがとうございます。
大変参考になるご意見であり、また、非常に貴重な知見のご提供に感謝いたします。
おっしゃる通り、「効果があるかもしれない」という期待が、幻想に変わったところに一番の被害が生じているのかもしれませんね。
そのあたりは、広告やメディアの問題も大きいと感じます。ご指摘されたような個別の治療師をメディアが祭り上げるという構図があり、そうしますと、”まっとうな”鍼灸師やその研究者も「被害者」かと……。
ご指摘いただいた内容、さまざまな観点から追究・検討したいと思います。ありがとうございます。 (回答日時:2016/06/01 17:43:28)

>それを選別する意味は何なのでしょうか?

「モノ」は具体的、「コト」は抽象的である。法則というものはすべて抽象的なものであり、思考によって生み出される。
鍼灸などの治療法は、科学的であることを標榜する現代医学の研究方法によって解明することは不可能である。それは、「コト」の範疇に属することなのだから、「モノ」を詳細に分析するだけでは法則に到達することはできない。
もっとも、現代科学では、「モノ」は「コト」に吸収合併されているのだけれども。
このようなことは、科学研究の基本のキです。この程度のことも認識できずに科学を語るおバカさんが何と多いことか、彼らは疑似科学を語る人たちと同じレベルといってよいだろう。そのために疑似科学を淘汰することが困難となっている。大学医学部で、「モノ」中心の現代医学教育を受けてきた医師たちに代替療法の研究ができるはずはない。科学研究の論理や方法、適用する法則が異なるのだから。それにもかかわらず、鍼灸なんかを疑似科学と決めつけることで、現代医学を信奉する自分たちこそ科学の徒であると思っているらしい。

(投稿者:maprmed70,投稿日時:2016/03/29 21:50:11)

(回答日時:2016/04/06 21:49:58)

化学変化では分子・原子の離散集合が問題となります。これによって物質(モノ)の構造や性質を説明します。例えば、水素と酸素が結合して水になる。しかし、物理変化では分子・原子の離散集合ではなく、物質のなかの分子・原子の位置が変化します。                   
例えば、超伝導物質を冷却していくと、化学反応が起きていないのに、ある温度に到達すると突然電気抵抗がゼロになる。これは当然化学変化によって説明することはできません。このような現象(コト)を説明するには物理法則を適用しなければなりません。
鍼灸などの物理療法も同じことです。 (投稿者:maprmed70,投稿日時:2016/03/25 13:55:34)

(回答日時:2016/03/28 13:03:56)

生命現象を化学反応の集積としてすべてを理解できるならば「モノ」として扱えばよいのです。しかし、鍼灸などは物理的作用であり、直接的には化学反応を起こしているわけではない。ここに化学変化と物理変化の違いがあり、鍼灸などの物理療法を「コト」として扱わなければならない理由である。
今回はここまでということに。 (投稿者:maprmed70,投稿日時:2016/03/18 14:03:24)

物理反応と化学反応の違いが今一つ理解できないのですが、そもそもなぜ化学反応ならば「モノ」で物理反応なら「コト」となるのでしょうか?
それを選別する意味は何なのでしょうか? (回答日時:2016/03/22 19:02:42)

「モノ」ではなく「コト」です。 (投稿者:maprmed70,投稿日時:2016/03/11 20:36:54)

ああ、すみません。
「コト」ですか。
では、「気」という「コト」を説明していただけますか? (回答日時:2016/03/14 11:38:37)

経穴という特殊な構造体は存在しません、神経系とも関係ありません。「気」といわれる現象は、生体を構成する物質の性質によって起きているにすぎない。したがって、疑似科学ではない。 (投稿者:maprmed70,投稿日時:2016/03/09 04:34:48)

「気」が疑似科学かどうかはともかく、まずは、「気」がどういう”モノ”であるかを説明していただければ、と思います。 (回答日時:2016/03/11 14:03:23)

鍼の機序を西洋医学的アプローチから検証する論文が増えています。そして『気』『経絡』『ツボ』などの概念に頼る事なく、鍼の作用機序を西洋医学の用語と生理学的知識で理解できれば、鍼の効果も明瞭になってきます。東洋医学では鍼は『陰と陽』のバランスを調整すると言いますが、『陰と陽』のバランスを『交感神経と副交感神経』のバランスと翻訳すれば、その機序が理解可能となります。 (投稿者:とく,投稿日時:2015/07/09 12:21:38)

とく様
鍼灸研究の進展は期待できますね。
ご投稿ありがとうございます。 (回答日時:2015/07/09 13:04:22)

鍼灸ほど腑に落ちないものもないというか……
「経絡・ツボ」のファンタジックな設定、そして何よりも「効いてしまう」という事ですね。
個人差あるでしょうが、私の場合は覿面でした。
なぜか効く
なぜ効くのかはわからない
世の中にはこういったものもまだまだ残されているのでしょうか (投稿者:たま)

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uidelines on Basic Training and Safety in Acupuncture World Health Organization
WHOによる鍼灸教育と安全性に関するガイドライン (翻訳改訂版 2000.4.7)
「『代替医療のトリック』の鍼治療の記述に関する問題点」
川喜田健司 全日本鍼灸学会雑誌 2010年第60巻2号252-254
鍼灸文献データベース(JACLiD)
公益社団法人 全日本鍼灸学会
The World Federation of Acupuncture-Moxibustion Societies
WFASのホームページ
補完代替医療ナショナルセンターにおける鍼灸への見解
National Institutes of Health (NIH) 米国保健社会福祉省内国立衛生研究所
“Acupuncture treatment for pain: systematic review of randomised clinical trials with acupuncture, placebo acupuncture, and no acupuncture groups”
Madsen MV, Gøtzsche PC, Hróbjartsson A. BMJ 2009;338:a3115.
“Acupuncture for chronic pain: individual patient data meta-analysis”
Andrew J. Vickers, Angel M. Cronin, Alexandra C. Maschino, George Lewith, Hugh MacPherson, Nadine E. Foster, Karen J. Sherman, Claudia M. Witt, Klaus Linde, Arch Intern Med. 2012;172(19):1444-1453
“Acupuncture for Back Pain A Meta-Analysis of Randomized Controlled Trials”
Edzard Ernst, Adrian R. White, Arch Intern Med. 1998;158(20):2235-2241
コクラン共同計画の概要
帝京大学EBMセンター